バブルとディスコ 今では考えられないこと多数
会社で一緒に仕事をしている隣の同僚、あるいはお姉さんなどのいわゆる勤め人は、仕事が終わると家に帰ると思います。それが普通ですよね。でも、バブルの時代は考えられない事が起こっていたのです。会社にそう何人もいるもんじゃなかったですが、いるにはいたんですよ、こんな人が。そしてそれは連鎖して、ごくごく普通の勤め人にも影響を及ぼしていたのです。当時私の会社は山手線の田町と都営浅草線泉岳寺の間の第一京浜、国道でいう15号線沿いにありました。私の実家は新宿から西に走る私鉄、京王線沿線でしたので、都営浅草線の泉岳寺駅を利用していました。殆ど田町に行くことはなかったのですが、時々気分転換がてら田町まで歩いて帰る事がありました。そこでは驚くべき光景が繰り広げられていました。さて、何でしょう?田町には何を隠そうバブルの象徴とも言えるディスコ、DISCO、ジュリアナ東京がありました。よくバブルを表現する際に使われるビデオで、扇子を回してワンレンボディコン、あるいはワンレンソバージュの今から見れば眉の濃い面白い化粧の女性が腰をくねくね踊る様子が放映されますが、あれはジュリアナ東京の映像です。中にはお立ち台と呼ばれる女性しか登れない特別なステージがあり、沢山のボディコン女性が腰をくねらせていました。それを見たさに男性も沢山集まり、ウォーターフロントと呼ばれた田町界隈はとてもにぎわっていました。私は潰れるまで行ったことがありませんでしたが、ボケっと田町駅の階段を上っていると、見ても見付かぬ服装をした女性たちがぞろぞろと歩いてくるのを何度も目にしました。当時ジュリアナ東京に向かう女性達は田町駅のトイレで着替えをし、ジュリアナ東京まで歩いて向かっていました。ちょっと違和感がありましたが、これはなかなか凄い光景なんじゃないかな、と、当時の私なりに思ったものです。色気があったならディスコの閉店時に待ち構えて声をかけたりということも考えられたのでしょうが、当時車のローンで月に10万円の返済があった私は女性よりも車命でしたので、そのような色事には考えも及びませんでした。ちなみに当時の手取りが11万円位で、そんな状況なのに生命保険の勧誘やら、投資で絵画を買わないかとか、彼女のためにタイヤモンドを買ったほうがいいとか、レーザーディスクで英語を勉強しようとか、一年でいいから毎月一万円の積み立てをしてくれとか、そんな勧誘の電話が会社にいろいろとかかってきて困りました。ちなみに高校卒業後就職してすぐに英語会話教材のセールスにひっかかり、60万円程の商品を分割払いで購入してしまい、購入者リストに乗っかってしまったのだなと、今になって思います。今は振り込め詐欺やらでお年寄りが狙われていますが、当時は当時でお金が回っていましたので、こんな私の所にも後から言われる悪徳商法の触手が伸びてきたのだと思います。実家暮らしでしたので何とかなっていましたが、車のローン返済給料手取りの約9割、月10万円払っていたなんていうのは、今から考えればとんでもない事だったと思います。ちなみにこの頃お弁当作りを覚え、というか、そうせざるを得ず、毎日昼食は食堂で弁当を食べていました。
バブルとディスコ 誰もがディスコに行く
こんな私でしたが、同級生などと遊ぶということになると、新宿に繰り出してディスコに行くという事もありました。なんだ、月に10万円払っているのにそんな金あるのか、って突っ込まれそうですが、ボーナスが少しありましたので、それをならして遊びに充てていました。この時代のすごかったところは、猫も杓子もディスコに行って踊っていたということです。私の場合は新宿コマ劇場の前にあるビル、今調べたら東亜会館と言ったそうですが、そのビルのゼノンXENONというディスコによく行きました。踊りなどは今でも恋するフォーチュンクッキー位なら踊れるかもしれませんが、生まれつき関節が硬いのか動きがロボコップのようだと言われ得意ではありませんし極める気持ちもありませんでしたが、その頃の雰囲気はディスコに行かなければならない、行かねば若者ではないみたいな感じがあったのです。若い頃のエネルギーというのは凄いですね。今更ながら自分の昔を思い出して関心しています。ちなみにディスコには地域格差なるものがあり、六本木が一番、次いで渋谷、新宿はその次、というランク付けがありました。遊びに長けていた奴らは六本木まで繰り出していたようですが、私なんかはどうもあの地下鉄乗り継ぎが面倒で馴染めず、遊ぶなら新宿でという気持ちが身体に染みついていました。東京で生活していましたが、東京の中の田舎者だったのだと思います。